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例え乗除算が遅くとも ~樫尾俊雄発明記念館で黎明期のリレー式計算機を見た~前編

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by [2015年12月22日]

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故・樫尾俊雄氏の自宅の一部を改装し発明品を展示している「樫尾俊雄発明記念館」
完全予約制でいきなり訪問しても見学できない

数値の計算に道具を使用する、という考え方が人類の歴史に登場したのは、初期メソポタミア文明のシュメールが恐らく最古であったと考えられています。

 今の時計で使われている60進法を最初に使用するなど、かなり高度な数学や天文学を発展させたこの文明が、必要に迫られて現在のそろばんの原型となるような計算器具を生み出したというのは割と素直に受け入れられる話ではあるのですが、そこから計算尺や機械式計算機(※注1)の原型が誕生するまでおよそ4000年前後、電力を計算に使用する方法が考案され実用化されるまでにはそこからさらに約300年、とこの種の装置は20世紀に入るまでその研究開発や改良がかなり長期間に渡って停滞気味でした。

 ※注1:計算尺と機械式計算機はいずれも17世紀前半に前後してその基本的な仕組みを確立させ、実用に供されるようになっています。ただし、機構の複雑な機械式計算機が真に量産可能となったのは産業革命によって規格化された歯車などの主要部品が工業的に量産可能となった19世紀後半、日本で「タイガー計算機」の製品名によって知られるスウェーデンのヴィルゴット・オドネル(Willgodt Odhner)発明の歯車式計算機が開発・製品化(1874年)されてからの話で、発明からおよそ250年ほどかかっています。

人類は産業革命の恩恵が世界に広まった19世紀末になるまで、複雑な多桁の数値計算を確実・高速に行う手段を持っていなかったのです。

更に言えば、そうして誕生した歯車式計算機やその後誕生した電気機械式計算機などもその多くは使用に一定の訓練を要するもので、一般の人々が気楽に利用できるような機械ではありませんでした。

言うまでも無く、そうした「計算機」のほとんどは据え置き式の巨大なもので、計算尺やそろばんのようにポケットに収まるようなサイズではありませんでしたから、なおのこと人々にとっては縁遠い機械であり、また計算尺やそろばんも、計算尺は有効数字3桁で位取りは暗算によって行う必要があり(※注2)、またそろばんも操作に検定がある程度には十分な訓練を行わねば利用が難しい状況でありましたから、それ以前よりは大幅に状況が改善されたとはいえ、それらはなおも「特別」な道具であったのです。

 ※注2:逆説的に言えば、この計算尺を常用していれば否応なしに位取りに必要な値を概算で導き出す計算能力を訓練されることになります。そのため、愛用者の中には電卓のようにただ数値としての答えを得るのでは無く、そうやって計算結果の規模を体感的・直感的に把握させる知育ツールとして計算尺を賞揚する人々も少なくありません。

そうして考えてみると、現在ごく当たり前に利用されている電子卓上計算機こと電卓の発明と実用化が社会に及ぼした影響の大きさがいかに絶大なものであったかが判るでしょう。

 なにしろ特に訓練せずとも、一般に用いられる中置記法(※注3)で書かれた数式の通りにキーを操作すれば、大体はそのままで正しい答えが得られる(※注4)のですから、その操作の容易さは議論の余地もありません

 ※注3:演算対象となる値の中間に+や-、×や÷といった演算子を置く「1+1」のような形式の数式記法。
 ※注4:一般的な中置法ではなく逆ポーランド法(中記法の「1+1」を「1 1+」と表記する様な記法)で計算操作を行える電卓もごく少数ですが存在します。

そして、その電卓の普及に決定的な影響を及ぼした「電卓戦争」において、その主役となり最終的に2社で市場シェアの8割を分け合う寡占状態となった日本の計算機メーカー2社、つまりカシオ計算機とシャープのなした貢献は、非常に大きなものがあります。

電卓が当たり前に普及し、さらにはスマホや携帯電話などにさえ電卓機能を実現するアプリが標準搭載されている現在の状況ではもはや想像も及ばないような状況なのですが、かつて1960年代以前には、「計算機」というものが一般の手に届かない、特別な機械だった時代が確かにあったのです。

そして東京都世田谷区成城の一角に、そんな計算機の大衆化に大きな役割を果たしたカシオ計算機の前会長であり自身も発明家・技術者であった樫尾俊雄氏(1925-2012)の名を冠した記念館があります。

カシオ計算機の創業家たる樫尾家でその社業発展を支えた樫尾四兄弟の次男である俊雄氏の生涯の業績を展示するこの記念館、計算機の歴史に興味のある人間には垂涎の的となる歴史的に貴重な計算機を保存展示していることで知られているのですが、閑静な住宅地に所在する俊雄氏の自宅の一部を改装して開設されたという記念館の事情から見学が完全予約制となっており、気軽にふらりと訪れて見学する、といったことができない場所であったりします。

今回、APPREVIEW編集部ではそんな「樫尾俊雄発明記念館」の見学と、保存されている貴重な計算機を目の当たりにすることが叶いましたので、ごく一部ですがそれらの紹介と合わせて計算機の黎明期について簡単にご紹介したいと思います。

喪われた計算機

先にも少し触れましたが、19世紀の終わりに実用段階に入った歯車式計算機は所定の数値をセットした後、クランクハンドルを手回しで回転させ、複雑な歯車の回転によって四則演算を行うものでした。

つまり、計算の度に結果が出るまでひたすら重いクランクハンドルを回し続けなければならないわけで、簡単な、桁数の少ない加減算を行う程度ならばそれほど負担にはなりませんが、例えば航空機の機体強度計算のような多桁の値を扱う乗除算を連続的に行う場合、そのクランクハンドル回転の負担は大変なもの(※注5)になります。

 ※注5:第二次世界大戦中に日本で軍用航空機設計を行っていた技術者の方のインタビューや取材記事などを読むと、ほぼ例外なく「タイガー計算機」と呼ばれたオドネルの歯車式計算機のクランクハンドルを必死で回して計算した話が出てきます。当時最先端でかなり優遇されていたと言える、航空産業に携わる人々でさえそのような状況であったのですから、当時の大規模数値計算作業がいかに大変なものであったかが判ります。ちなみに、この「14-A」の発表された1957年頃でもこの「タイガー計算機」は日本国内で多数が稼働していて、例えばカメラメーカーであり後に電卓戦争の際にカシオ計算機の強力なライバルの1社となったキヤノンでは、レンズの光学設計の計算にこのタイガー計算機を使用していたことが知られています。

ここで楽をしよう、とこうした手回しによる歯車式計算機のクランクハンドル回転を動力化する発想が出てくるのは、ある意味当然の成り行きでしょう。

その発想自体は結構古くからあって、例えばチャールズ・バベッジの階差機関(Difference Engine)や解析機関(Analysis Engine)といった19世紀中盤に構想・開発されながら未完に終わった大型計算機群は蒸気機関による動力で関数歯車を駆動し演算処理を行う設計となっていました。

もっとも、蒸気動力によってこの種の歯車式計算機を駆動・制御するにはそれなりに面倒な問題があったらしく、動力装置を備えた歯車式計算機が電気モーター駆動により本格的な実用段階に達したのは1920年代、例えばアメリカで開発されたモンロー電動計算機(1925年)などが市販されるようになってからの話(※注6)でした。

 ※注6:この種の電動計算機は何かと不安定要素の多い真空管を演算素子とする電子計算機ややたらとかさばるリレー計算機と比較すると、騒音が大きく処理速度も遅いものの丈夫で確実な動作が期待でき、しかもそれなりにコンパクト化できたためか意外と後年まで作られていました。筆者は電気工事業を営んでいた親戚の家で職人たちの給与計算用に1960年代に購入されたこの種の計算機が、電卓が普及した1970年代中盤になってもなおも大切に保管されているのを実見した記憶があります。

もっとも、1950年代には日本でも既に演算素子として利用できるソレノイドスイッチやリレースイッチが電話局の交換機用などとして量産され入手できるようになっていて(※注7)、これを用いた計算機の開発が始まっていましたから歯車式計算機の発達はこのあたりで終わりました。以後の計算機開発はリレースイッチから真空管(※注8)、さらにはゲルマニウム半導体、そしてシリコン半導体とより高速なスイッチング作用を持ち、なおかつより高い信頼性を実現する電子デバイスを演算素子として利用するものに順次移行してゆくことになります。

 ※注7:ソレノイドスイッチはカシオ計算機創業前の試作研究時代に試作機に採用されたことがありましたが、様々な事情から製品化には至りませんでした。リレースイッチにも信頼性の点で幾つか問題があったのですが、後述する「14-A」に搭載のリレースイッチのようにスイッチ機構の非磁性化対策を講じ2接点化したり、あるいは窒素などの不活性ガスを充填したガラス管にスイッチ部を封入するといった接点硫化防止や防塵のための工夫を凝らしたリードスイッチ方式を採用したりすることで信頼性が大幅に向上しました。もっともこうした方式を採用しても(一定の長寿命化は実現されるものの)機械的なスイッチ機構であるため接点部の摩耗による交換は避けられません。
 ※注8:真空管コンピュータの開発は1937年に開発がスタートし1941年に稼働を開始したABC(Atanasoff-Berry Computer:アタナソフ&ベリー・コンピュータ)やENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer:1946年公表)など1930年代後半に本格化し、1940年代後半から1950年代中盤にかけて隆盛を極めました。もっとも、これらは正常に動作すれば劇的な高速演算を実現した反面、寿命や特性の揃った真空管を大量に消費するため、稼働に当たってはそれらの調達に苦労したことや、中には専用の故障真空管検出・交換メカニズムを搭載した機種まであったことが伝わっています。

このあたりの発達史については既に多くの場所で語られているため省略しますが、1950年代から1960年代まで普及し一世を風靡したリレー式計算機は、ほぼ全ての点で1960年代中盤、東海道新幹線が開業したあたりから普及が始まった半導体による電子卓上計算機や同じ技術を基礎とする半導体コンピュータに見劣りしたため、瞬く間に駆逐され廃棄処分されました。

消費電力でも計算の処理速度でも、さらには設置やメンテナンスの容易さでも、従来のリレー式計算機がトランジスタやIC、さらにはLSIを使用する電卓やコンピュータに勝てる部分がほとんどなかったのですから、それは当然の結果であったと言えるでしょう。

もっともこうした事情から、初期のリレー式計算機はどこの国でもほとんど実機が残っておらず、それは日本でも同様です。

それだけにそうしたリレー式計算機が、カシオ計算機1社の製品に限定されるとは言えメーカー自身の手によってレストアされ保存展示されているこの「樫尾俊雄発明記念館」の収蔵品群は、現在のパソコンやスマホに至る道筋を知る上で非常に重要な歴史的価値があると言えます。

後編では、収蔵品群を見ていきたいと思います。

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